サラサがサルサ

「目を閉じてごらん。」綺麗なグレーの髭を蓄えた彼は、うろたえる私に優しく言った。

サルサをちゃんと踊ってみたいと初めて思い、バルセロナのサルサ・クラブに1人、緊張しながら足を踏み入れた。それまでにも、友達と訪れたクラブで偶然サルサ音楽が1曲かかり、ラテンアメリカ出身の友達に基本のステップを教えてもらったり、遊びで踊りながらクルクルっとターンをさせて貰ったりしたことはあった。私の名前の語呂と合っているので、なんとなくずっと親近感を抱いてはいたが、きちんと踊ったことは一度もなかった。

基本のステップしか知らない私は、踊っている人々を眺めてしばらく様子見。その後、何人かに「踊りませんか?」と声を掛けられて、「学びはじめたいと思っているだけで、今日は見物しているんです」なんて言って、断る。「それでも、いいよ」と言う人とは、踊ってみるものの、相手の動きが読み取れず、噛み合わず、足を踏んでしまったり、踏まれてしまったり、全然うまくいかない。少し落ち込みながら、また楽しそうに綺麗に踊る人々を眺めていると、母親くらいの年齢だろうか、すごく上手な女性の2人組がいる。話しかけやすそうだった彼女たちに、「サルサが踊ってみたくて初めてきたんですけど、どうしたらあなたたちみたいに上手に踊れるようになるでしょう?」聞いてみた。

するとすぐ、「まず彼と踊ってごらん」と言って、曲が終わったタイミングで友達を呼んできてくれた。それが、あの、髭のおじちゃんだった。曲がはじまると、ステップを踏みながら、つい無意識で視線が足下に行ってしまう。そんな私におじちゃんは、「リーダー、つまり運転手は僕だから、フォロワーの君はただ、手から感じる感覚だけを頼りに、音楽を聞きながら、僕の運転する車に乗っていればいいんだよ」と言って、目を閉じるように私に言ったのだった。

言われるがままに、半信半疑で目を閉じる。すると確かに、音楽のリズムと、触れた手の感覚が鮮明に感じられる。ちょっとだけ優しく左手が引かれた、と思うと、体が勝手にくるっとターンして反対側に移動している。そんなこんなで、「ごめんなさい」と足を踏んで謝ることも1度もなく、目を閉じたまま、曲の最後まで踊ってしまったのである。

この初めてのダンスですっかり気持ち良くなった私は、その後、女性たちのアドバイスに従い、サルサ・クラブで平日の夕方に開催されているレッスンに足を運ぶことにした。

レッスンでは、参加者全員でローテンションしながら、みんなで動きの型を勉強する。見ず知らずの人と「こんにちは」とだけ挨拶をして、手を取り合って踊るわけだが、レッスンで誰かと踊るその数秒で、ーそして1曲を踊るならその約3分間でー、言葉を交わすわけでもないのに、不思議と相手がどんな人か、少しわかったような気分になるのが、面白く、私をさらにサルサにのめり込ませた。それは、ある時は、あの初めて踊った紳士のような優しいけど芯のあるリードだったり、またある時は、「この人は多分すごくナルシスト」という感想を抱いたり、「ユーモアがあるな」とか「あわてんぼうだな」とか、「かなり強引な人だな」、「思いやりがあるな」などなど、車の運転で性格が出るのと同じで、ダンスのリードでかなり性格が出るのである。

そうしてスペインで習いはじめたサルサだが、その後、日本でもレッスンに通ったり、通訳で乗った船の上や、キューバ、メキシコ、グアテマラ、そしてイギリスなど、いろいろなところで踊った。ロンドンは特に、国際都市とだけあって、踊りに行くと肌の色・国籍関係なく、老いも若きも、ありとあらゆる人と踊ることができるのが面白い。サルサ以外の空間で出会ったら、絶対手を取り合うことはないであろう2人が、3分間、2人だけの世界で、言葉を使わないコミュニケーションを取るわけだ。誰が言い出したか知らないが、「3分間の疑似恋愛」と揶揄されるのも理解できる。

サルサが踊れる場では、必ずと言っていいほど合わせて音楽がかかる、ドミニカ共和国のダンス、バチャータやメレンゲ、アフリカのアンゴラ発祥のキゾンバなど、違うダンスもリズムや雰囲気がガラッと変わって面白い。サルサを一緒に踊ってお茶目だと思った人は、やはりバチャータもお茶目だし、そんなのを確かめるのも楽しい。

さて、そんな私は今夜、ロンドンで、生まれて初めて、入門者向けのワークショップの先生の助手を務めることとなっている。「名前が似ているから」と、なんとなく興味を持ったサルサ。そんな私に、バルセロナでサルサを好きになるきっかけをくれた、名前も知らないあの人のように、踊る楽しさを伝えられる夜にしたい。

あとがき

カバー写真は、サルサの発祥地、キューバでサルサを踊りに行った時。外国人の入場料が別で設定されていることを知らずに、最低限のお金だけを持って到着したら、手持ちのお金で入場料が微妙に足りず。チケット売り場で交渉をしようと試みていると、後ろに並んでいたドイツから来ていたカップルが、「せっかくのキューバで、わざわざここまで来たのに、入れないようでは残念だ」と、足りない分を払ってくれた。思えば、いつも人に助けてもらってばかりの私です。

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