予定外のバルセロナ留学

高校のスイス留学を存分に楽しんだ私は、大学でもせっかくなら、大学の交換留学制度を利用して留学しようと決めていた。行き先は、環境分野の研究で良い先生がいるというオーストラリア。意を決して、大学の留学情報センターに申し込みに行くと、「オーストラリアは、今からではもう間に合いません」と。書類提出の締め切りだけを見ていたが、必要な書類の中には、英語の試験証明などがあり、今から試験を受けるのでは締め切りまでに間に合わないという。「今からまだ応募できるのはどこですか」で、候補に上がったうちの1つがバルセロナだった。大学2年生の夏休み、モロッコの後にフェリーで入国し、数週間旅したスペイン。そういえば、あの時、美味しいご飯や、フレンドリーな人々に惹かれ、「いつかスペイン語を学びたい」と日記に書いていた。と、いうわけで、スペインに行くことにしたのだった。

スペインの学生ビザの申請には、滞在先の住居契約の証明が必要だという。日本にいながら何ヶ月も前に現地の家を探すなんて無理がある。大学の寮にすればスムーズだが、家賃が異様に高い。インターネットで見つけた、シェアハウスを探すウェブサイトで、バルセロナの中心地にあるアパートをいくつか注意深く選んでメッセージを送ってみるが、全然返事がない。諦め半分で、サイトに掲載されていたアパート数十件、ほとんど内容も確認せず、闇雲にメッセージを送る。数日後、唯一返事があったのが、「ノルファさん」からだった。ウェブサイトに表示されていた家賃に光熱費が含まれることと、デポジットの支払いはスペインに着いた当日で良いことだけ確認する。他に選択肢もないし、ビザに住所が必要なのだ。迷いなく確定し、メールで、契約証明の代わりになるような、サイン付きの確認書を送ってもらう。これでビザ申請書類もなんとかパスし、家は気に入らなければ現地で引越し先を決めれば良いし、という軽い気持ちで、いたのであった。

シェアハウスのウェブサイトで見つけた物件だったので、当たり前のように、映画「スパニッシュ・アパートメント」ごとく、世界中の若者とシェアハウスをすると夢見ていた私は、「ノルファさん」から、渡航の数週間前に「小学生の子供2人と、夫と4人家族です」と連絡が来た時には、正直びっくりした。しかも、Airbnbで数日の滞在は受け入れたことがあるが、月単位で部屋を貸し出すのは彼らにとっても初めてだという。思ったのと全然違う展開だが、とにかくビザのために住所が必要だったのだ。家族と上手くいかなければすぐに引っ越そう、と思い直し、とにかくバルセロナに向かった。

夜の23時にバルセロナの空港に着く飛行機だった私は、「到着が遅すぎるようだったら1日目はホテルに泊まります」と拙いスペイン語で連絡すると、「20ユーロで空港まで迎えに行きますよ」と返事がある。安いのか高いのかよく分からないが、長時間フライトで疲れて到着する夜遅く。バスや電車で移動するのも面倒だし、ホテルをとればその分宿代もかかると思えば、迎えに来てもらう方が良いか、とお願いすることにした。

空港に着くと、「Welcome Sarasa」と書かれた小さな紙を控えめに掲げる、いかにもおとなしそうなおじさんが一人。これが、ノルファ家のお父さん、アルベールさんとの出会いだった。片言のスペイン語を駆使し、車で色々喋ること数十分。お父さんは静かに相槌を打ちながら、私の長い自己紹介を聞いてくれる。家に着いたのは深夜12時近く。このまま寝るかと思いきや、8歳と12歳の子供はまだ起きていて、挨拶。ノルファさんにも簡単に自己紹介。「寝る前にカモミールティでもどう?」と誘われたキッチンで、そのまま、全然わからないスペイン語、内容は20%も理解できていないが、ひとまず「Ah si! Si?(へーそう、はい)」など相槌を打ち、眠い瞼を持ち上げながら、ノルファさんの話を聞く。ノルファさんも途中で眠くなってきて、「そろそろ寝ますか」となったのは、深夜2時過ぎだった。私はそこで急いで、スペインに来る前に事前に辞書を引きながら作成した、「おうちのルール確認質問票」を取り出し、シャワーを浴びてはいけない時間帯やキッチンを使うのを避けた方が良い時間帯があるか、ゴミ分別の方法や、洗濯の頻度など、「また明日、教えてください」と言って机の上に置いて寝る。

それから毎日、寝る前のカモミールティと、ノルファさんの長いお話が日課になった。聞けば聞くほど、理解できないのが悔しく、スペイン語をもっと勉強したいというモチベーションに繋がった。

大学は、授業が週に3日だけで、あとは週3日、18時から21時にかけて、割安のスペイン語学校を見つけ、グループレッスンに通うことにした。バスに乗って大学に向かうとき必ず通るサグラダファミリア。毎日見ていても、毎回ため息をつくほど美しい、車窓からの街並み。

渡航から1ヶ月半後、大きな交通事故にあったとき、一番に電話したのはノルファさんだった。病院やら弁護士の手続きやら12時間以上掛かってやっとのことで家に帰り、緊張していた気持ちが緩んで、傷が疼き始めたのは、アルベールさんが作ってくれたスープを食べた時だった。

小学6年生の妹は、カタルーニャの伝統楽器ティブラを習っており、家でよく信じられない爆音でプープーと楽器の練習をしていた。なかなかのお調子者でサッカーの好きな小学2年生の弟は、優しい男の子。毎日、日本語で「おやすみ」と言ってくれるのが可愛かった。気がつけば当たり前のように毎日一緒にご飯を食べるようになっていた彼らと、少しずつ上達していったスペイン語で、3ヶ月も経つ頃には、お母さんの故郷ペルーのこと、そしてお父さんの出身のカタルーニャの歴史や伝統、独立運動について、それから子供たちのその日の習い事の予定など、色々な家族の会話にも入っていけるようになった。

学校は、というと、事故に遭ってからモチベーションが見つけられず、授業を減らして、出席する授業もレポート形式に変えてもらった。代わりに、毎日のように留学生友達と、踊ったり、美味しいご飯を食べに出かけたり、ノルファさん家族と週末に出かけたり家事の手伝い、家族ぐるみで仲良しの友達との集まりにも参加させてもらったり、大学に通う以上にスペイン語漬けのバルセロナ生活となったのだった。もともと同じラテン語族のフランス語ができたことも手伝い、5ヶ月で満足できるスペイン語力がついたのは、ラッキーだった。この時は、その後スペイン語の通訳として船に乗ることも、その後ラテンアメリカにのめり込んで修士号を取ることになるとも、1ミリたりとも想像していなかったが、「オーストラリア留学の申請」が間に合わなかったお陰で、ノルファさん一家との素晴らしい出会いやスペイン語習得することができたのは、やはり運命だったのかもしれないと改めて思う。

やってみたこと

Comments
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  1. Hola! SaRaSa, Que tal ? コミュニテイーセンターで市主催のスペイン語初級クラスに月3回で4年通ってすんなり出てくるのはこれぐらいです(笑う)3話目に選んだのがスペイン留学でした。大学でも交換留学制度を利用して・・・・もドタバタの始まりがあったんですね!予定外のバルセロナになったおかげで今の貴女がある!私はそう思います。想定以上のフレンドリーファミリィーに下宿できたんですね!それはキット貴女から出ているオーラ―(相手に柔らかな優しさを与える)のおかげだと思います。キラキラ輝く瞳は相手を疑わず受け入れる。そしてニッコリ笑顔はすべてを包み込んでくれますもの!カモミールテイー飲みながらのおしゃべりはまさしく家族の一員ですね。会話力を養えたでしょう!渡航1か月半で大きな事故に遭われたとか!一番にノルファさんに電話されたとのこと。バルセロナ―で一番頼れる相手だったからですね!さらに絆が深まったでしょうね。特に後遺症が残ってはいないようですが・・・大丈夫なんですね。この事故のおかげ(って言ってはいけないかも)でその後の生活が少し変わり、それがスペイン語上達に寄与したんですね。希望したオーストラリアに行けなかったことが、こんなにも素晴らしい人生行路を作ってくれるなんて本当に運命だったんですね。余談ですが機会がありましたら17年間ヒッチハイクで126ヶ国を旅した近藤瞳さんを検索して見てください。彼女のワークショップに参加(福井、滋賀、能登、千葉と4回)しFB交流し色々影響受けてます。また日記読ませていただきますね!Hasta luego.

地球“借り”暮らし日記