南半球、船乗り通訳生活

大学生の時、定期的に、「フランス語 求人」とか「スペイン語 求人」とかインターネットで検索していた。別にアルバイトを探していたわけでもないのだけれど、それは多分、自分の持っている能力だったり、その能力を必要としてくれる場所や人がいることを確認するための行為だったのだと思う。

スペインの留学から帰国して、2、3ヶ月だった頃、いつものように特に目的もなく開いた求人サイトで、「世界一周 通訳ボランティア募集」の広告が目に止まった。地元のご近所さんの元気なおばあちゃんが、いつだったかこのピースボートに乗って南極に行ったって言ってたような、と曖昧な記憶を探りながら、詳細を読んでみた。「通訳経験不要」「船内のレクチャーやイベント通訳、寄港地の現地ガイドの通訳、船内新聞の翻訳など」「第93回 現在募集中」。第93回の船旅を調べてみると、南回りの航海で、アフリカのマダガスカルやモザンビーク、南米、それに南極やイースター島など、貧乏学生の個人旅行ではなかなか行きにくい場所を攻めている。

まぁ、駄目でも損するわけではないし、とりあえず応募してみるか。そんな気持ちで応募。通訳経験も無いし、とはいえ、寄港地にはフランス語圏もスペイン語圏もバッチリ含まれているので、とにかくオールマイティーに色々そこそこのレベルには出来ることをアピールし、あっという間にビデオ電話で面接と試験。翻訳試験は時間内に訳し終えることが出来ず、制限時間で一旦その時点の訳文を送り、30分以上遅れて、納得のいく訳文をもう一度送り直した。そろそろ結果がくるはずのその日は緊張して一日中携帯電話に張り付いていたものの、携帯がフライトモードになっており(おっちょこちょい)、連絡が1日来ずに焦っていたところで、「電話が通じなかったのでメールでのお知らせになりますがボランティア通訳として採用です。よろしくお願いします。」という趣旨のメールをパソコンで確認して大喜びだった。

そう、その時は私は、どんな大きな試練が待ち受けているかなんて、微塵も想像できていなかったのであった。

高校時代の思い出詰まる横浜を出港し、今度は大学生活を過ごした神戸の港を主発した。横浜から神戸の一晩は船酔いがひどく、この先どうなるものかと頭を抱えたが、神戸港を出発してからというもの、幸いなことに、船酔いとはすっかり縁がなかった。

船に乗って一番最初に担当したのは、ジャーナリスト莫邦富先生の講演の日英同時通訳であった。中国の諺と日本の諺を比較したりする内容が出てくると、その内容を理解した上で解説も付けないと、英語だけで理解のできる内容にならないため、一苦労である。船上レクチャーの通訳の内容は幅広く、ある時はブラジルの貧困問題について、ある時はアルゼンチンの歴史について、またある時はタヒチの伝統農法について。通訳するということは、それらについて説明するということで、日本語ですら学んだことの無い内容を誰かに分かりやすく説明するとなると、それが母国語であろうとすごく難しい。日本語から外国語にするのに、十分な語彙力も必要になってくる。他の通訳ボランティアは、学業やら仕事やら英語圏に暮らしたことのあるメンバーだった中、私一人は一度たりとも英語圏に暮らしたことがなく(旅行ですら最後に行ったのは小学校低学年の夏休みに家族で行ったオーストラリアが最後であった)、アメリカのドラマ「クリミナル・マインド」やハリウッド映画の字幕を手で隠しながら観て、英語を喋れる気になっている私とは比べ物にならない。そこから、朝起きて夜寝るまで、ご飯を食べている時以外はほとんど寄港地や船内講義の過去の資料の勉強、関連する語彙の勉強が始まった。また、通訳の振り返りノートを作り、どこが良かったか、何がうまく行かなかったか、次回はどのように準備すべきか、どんなに小さなイベントの通訳でも毎回記録を書き残した。

悔しさのあまり涙が溢れる日もあったし、自分の下手な通訳に、クビになったらどうしようか、突然どこかの港で解雇になった場合の日本まで飛行機代は払われるのか、心配してヒヤヒヤする日も多かった。そうして落ち込みながら、でも少しでも悔しさが小さくて済むように、少しでも満足のできる通訳ができるようにと、とにかく勉強漬けの毎日だった。

それと同時に、語学力では限られた時間の中でどんなに勉強したって他の通訳に追いつくことなんてできない。じゃあ私が武器にできることは何かと考え始めた。いろいろな人に相談した上で、私が出した答え、それは雰囲気作り。聞く人が、「もっと聞きたい」と、そして、話す人が、「もっと話したい」と思えるそんな雰囲気作りができる通訳を目指すことにした。そのためには、聞き手にどんな人がいて、どんなことに興味があるのか、何を聞きたいのかを知ることが大事だし、話し手がどんなバックグラウンドがあって、どんな経験があって何を話せるのか。まずは私がそれを知ることからだ。南半球、奇想天外の毎日。バスのガイドさんだと思いきや、昨日頼まれて付け焼き刃で街の歴史のメモを一枚持ってきただけの少年だったりする。じゃあ、せっかく準備してきた歴史のレクチャーをしてもらうけど、3分で終わってしまう。でも、地元の学生に人気の安くて美味しい料理屋さんの話ならたくさんできるかもしれない。家族構成は?両親は何をしているの?日本に対してどんなイメージを持ってるの?そんな話でも案外盛り上がるかもしれない。それを引き出せるかどうかは、私なりの、唯一の腕の見せ所だったのだ。

大事件は数々あった。南アフリカで訪れていた山が大火事になったり、ガイドさんが人数を数え間違えてお客様を1人観光地に置き去りにしてしまったり、モザンビークの国境では突然外国の大型バスが通れないというルールが設定されて数百人のパッセンジャーをタクシーに小分けにして港まで移動したり。上海のツアーで、デザート付きのはずのコースメニューだがデザートがいつまでも出てこず、店側に確認すると「主菜と一緒に出したトマトがデザートだ」と主張していたこともあった。日本では想像もつかないような不思議な出来事が起き続ける、それが南半球船旅。それと同時に、誰かにとって一生に一度の夢の世界一周旅行かもしれない。そう思うと、「先ほどのトマトがデザートだったそうで、これ以上待ってもデザートは出てきません。」とだけ当たり前に説明しても人はがっかりするばかりだが、「そもそもフルーツと野菜の区切りって科学的にも曖昧で、国によって定義が違うんです。裁判大国アメリカではトマトはフルーツか野菜かの裁判が行われたことがあるとどこかで読んだことがあるのですが、その時は科学的分類ではフルーツだが、法的区分では野菜スープに入っているので野菜である、という判決だったそうです。今日の経験から言えば、中国ではもしかすると、トマトをフルーツと認識している人が多いのかもしれませんね」。そこまで言えれば、デザートが食べられなかった経験も、もうちょっと興味深い思い出になるかもしれない。

「トラブルがあってこそのトラベルだから、それを楽しまなくてどうする」という心意気は、多分両親から学んだものだと思っている。

約90日間の、船乗り通訳生活。それは、私にとって、自分の能力の無さに対峙し、悔しさに溢れた90日間だった。

ところが、辛い思いの方が多かったはずの船乗り生活も、5年経った今となっては良い思い出ばかりが残っている。船の上や寄港地での素敵な出会いや息を呑むような美しい景色。そんな私はきっとまたいつか、船乗り通訳生活をするのだと思う。

やってみたこと

Comments
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  1. 「デザートがトマトです」やったら怒るけど、そのあとのお話があったらいい思い出になる!!

  2. みなみさん、コメントありがとう😊そうなのよね、ものは結局、考えようってことかな。怒るのが悪いことではないし、せっかくなら杏仁豆腐とかマンゴープリンとか食べたかったけれど(笑)、自分がもっと知る・違う見方をすることで「怒りエネルギー」をその分笑ったりすることに使えたらお得な感じするよな〜と常々考えては、いるのです😛

地球“借り”暮らし日記
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