16歳の時、1年間、AFSという団体を通してスイスへ留学した。留学を決めたのは中学3年生の時。中学の担任だった社会科の先生や、英語の先生にお願いし、英語で推薦書を作っていただいたのが懐かしい。留学を決めたきっかけは、近所のお兄さんがAFSでアメリカに留学したことが大きかったが、私は派遣先のリストを見て、「英語はきっと日本にいても学ぶ機会がいっぱいある。せっかくなら全然違う言葉をやろう」と思い、チーズやチョコレートがおいしいスイスや、よく知らないけどなんか楽しそうなメキシコ、過去の派遣者の写真の背景のビーチが綺麗で惹かれたコスタリカなどなど、かなり適当に希望の国を応募書類に書き込んだ。
結果はスイスに派遣されることになったわけだが、国が決まって私はまず、スイスの70%の国民にとっての第一言語である、ドイツ語を勉強しはじめた。その後、スイスの中でも約20%のフランス語圏に行くことが決定したのは、派遣される約半年前。そこからフランス語をスタートし、中学校の放課後に、毎日必死で勉強した。
日本の高校に入学してから、若干4ヶ月後、最初の夏休みになると私はスイスへ向かった。仲良くなったばかりの日本のクラスメイトとのつながりを保つため、「さらさらスイスイ通信」という手書きの生活記録を毎月作成し、封筒に入れて送っては、母がそれをファックスで高校に送って、担任の先生がHRでクラスメイトと共有していた。今思えば、驚くほどマニュアルな「シェア」であるが、10年前の当時は、まだまだスマートフォンが少数派の時代。スイスの日本語の打てないパソコンで、ローマ字を使って”konnichiha ogenki desuka…”などとeメールで母に連絡し、たまにSkypeで待ち合わせをしてやっと通話ができるような時代だった。
母が保存していた「さらさらスイスイ通信」を読み返すと、スイスの高校生活の、驚いたことや、週末何をしているか、体重が増えた、などいろいろなことが書いてあって面白い。特に驚いたこととして挙げられているのが、「授業と授業の間の10分休憩、廊下は2m置きにカップルがものすごいキスをしている!」や、「スイスはいろいろな国籍の人がいて、高校の教室も生徒も先生もいろいろな肌の色の人がいる!」「マクドナルドで一番安いセットメニューが1000円くらいする!そんな物価の高さもあって、私のホストファミリーはランチ代として毎日1300円もくれる!」などなど。
フランス語を勉強していったとはいえ、最初はほとんど聞き取れず、話せず。今みたいに、「スマホでグーグル翻訳で」、というほどは自動翻訳も手軽ではない時代だ。そう思えば、クラスメイトも、先生も、ホストファミリーも本当に根気よく私と付き合ってくれていた。歴史の授業は先生がただただ喋るが何もわからない。化学、物理それに生物は日本でも履修しておらず、わからない単語も辞書で調べても、専門的すぎて出てこないか、翻訳語が出てきても、なんだか分からないものばかり。日本では得意科目であったはずの英語の授業も、スイスの高校では、聞いたこともないようなインドやアフリカのアクセントの英語リスニングテストなど、慣れないことばかりで面白いけど全然できない。マウンテンバイクや柔道、スケートにフェンシングを選択した体育の授業と、美術の授業は楽しかった。それに、数学の授業だけ、幸いほとんど日本で勉強済みの内容だったことと、言葉ができなくても数式が理解できたので、唯一の腕の見せ所だった。
日本でずっと成績優秀の優等生だったのに、スイスの高校のテストでは取ったこともないような酷い点を取るし、最初に一緒に暮らしたホストファミリーとも全くうまくいかず、涙の流れる日もあった。でもそんな時、クラスメイトのマリアマやデボラ、それに、同じAFS留学生で他の高校に通っていたドイツのポーリンやエクアドルのアレハンドラには、本当に支えてもらった。涙を流しながらも、「まあどうにかなる」と楽天的に考えることができたのも、友達がいたからだと今振り返って改めて思う。
3ヶ月も経つと、フランス語で夢を見、さらに寝言も言うくらいには、フランス語も上達し、そこから3ヶ月後にはホストファミリーもついに変更することになり、お引越し。新しい愉快な家族と、高校の授業、高校の課外活動の聖歌隊、それから週に1回ひょんなことから通いはじめたカーリング。私のスイス留学は、後半になってやっとスイスイと楽しくスムーズに流れはじめたのであった。
そんな中、ちょうど家のネット回線の工事が押しており、テレビもインターネットも無い1週間を過ごしていると、ある日、クラスメイトに「家族、大丈夫?」と言われた。そのまま、急いで高校の情報の授業の部屋へ。先生に頼んでパソコンを貸してもらって、フランス語で最初に見たニュースは、映像付きの津波の報道と、「未曾有の原発事故で日本の首都東京も既に汚染がかなり進んでいる」という内容だった。これが私にとっての3.11だった。その後、家族とも連絡が取れるようになるが、日本の報道では「大丈夫、心配ない」の一点張り。「報道というものが、その目的や目線によって、同じ内容のはずがここまで違うのか」と、考えさせられた初めての経験であった。