チムジルバンで世界旅行

3月も最終週。年度終わりということもあり、仕事のプロジェクトメンバーとの打ち上げディナーと夜桜見物をしたその足で、赤坂見附に向かう。

窓拭き修行をしていた当時、家から1時間ちょっとかけて東京駅の会社へ通っていた。しかし、窓拭きは現場によってそこからさらに乗り換えが必要であるし、開始時間も朝早く、始発に乗る必要があることも多々あった。金曜日の夜、東京で晩御飯の約束なんかがあれば、東京のビジネスホテルに泊まった方が良いのでは、という結論に至り、東京散策も含め、前日になると送られてくる窓拭き現場の位置に合わせて、東京の安宿に泊まっていたのだった。

ちょうど東京オリンピック前で、東京は宿泊施設不足が騒がれており、新しいホテルやホステルが続々とオープンしている時期であった。普段は、3000円以内でどこでも簡単に宿屋が見つかったが、この日はおそらく、新年度の入学式や入社式に合わせた引っ越しに向け、借り暮らしをしている人も多かったのか、安い宿はどこもいっぱい。翌日の現場に向かいやすいメトロ路線で一番安かった宿が3750円の女性専用チムジルバン。そう、韓国式の銭湯とサウナの併合施設で、仮眠スペースも備え付けている、チムジルバンだ。

チムジルバンに泊まるのは今回が初めてではなかった。韓国の大邱でトランジットがあった時、夜の9時頃着の便で、翌朝は8時発。せっかくだから美味しい韓国料理が食べたいけど、その時間帯にどこで何を食べたら良いかを、韓国通の姉に尋ねたところ、夜市や遅くまでやってるチェーンのカフェに、チムジルバンで仮眠を取ってはどうかというアドバイスをもらったのだった。その日は、夜市でホルモン炒めなど食べ、その後食堂で海苔巻きのキンパップとチーズラーメン、チムジルバンのサウナで疲れを癒やし、暖かい床暖房の効いた仮眠室でぐっすり眠っていると、誰かのいびきで目が覚めた。時計を見るとなんと離陸の1時間半前。空港に到着しているはずの時間だった。なぜか鳴らなかった目覚ましアラームを確認しながら、大急ぎで荷物をまとめ、空港に向かったのだった。空港の荷物検査ではチケットを見せると最優先レーンへ連れていかれ、空港内で名前が呼び出されている始末。幸い、飛行機が若干遅れており乗り過ごしはしなかったものの、なかなかの冷や汗ものだった。

さて、久しぶりのサウナにワクワクしながら、店が閉まり始めている金曜夜の赤坂見附の飲み屋街を抜け、予約したチムジルバンを探す。見つけた扉を押すと、右手に空っぽの受付カウンター。チャイムを鳴らし、しばらくすると、おばちゃんがやってきた。私の顔を見て第一声「え!今きたのね!もう寝る場所ないよ、今日は!」と言う。「あ、えーっと、予約をしているのですが」「えー!予約した?でももう寝る場所ないよ!」「ちょっと待ってください、」私はスマホを取り出して、booking .comの予約画面を探し、カウンターに置いた。「これ、今日の1泊で、24時間フロントと書いてあったのですが、到着予定時刻も、23時と、」そこでおばちゃんは画面を見つめ、「わかった、こっちきなさい」。

連れて行かれた先は、フロントのすぐ隣の待合室に置かれた、マッサージ用の顔を出す丸い穴が空いた台。そこに座ってペディキュアを塗っていたお姉さんに韓国語で話しかけ、退いてもらうと、「ここはどう?」と言う。「電気は夜消えますか?」と確認すると、「ついたてで囲うことはできるけど、フロントと待合室の電気は消えない」とのこと。ふむ。いくらどこでも眠れる私とはいえ、3750円払ったのだ。ここで妥協するわけにはいかない。

「もう少し違う場所ありませんか?」と言ってみると、おばちゃんは、「ちょっと考えるから、その間にお風呂先入ってなさい」と言う。まぁ確かに、と思い、私は荷物を一旦フロントの横に置いて、お風呂に入ることにした。

大きな浴場には、サウナと温度の違うお風呂がいくつかと、水風呂。その水風呂に足を入れながら、外国人女性の5人組のグループがキャッキャと騒いでいる。何気なく耳を澄ませると、明らかにメキシコ訛りのスペイン語。「東京の、韓国サウナで、メキシコ人?」不思議な組み合わせを少し面白がりながら、「メキシコの方、ですよね。旅行ですか?」と声をかけてみる。

まさか素っ裸のお風呂で突然スペイン語で話しかけられると思っていなかった女子たちは大いに驚き、そして大はしゃぎ。メキシコ・シティから10日間の日本旅行に来ており、全員、従姉妹や叔母さんなど親戚同士だという。私と同じようにbooking .comで調べて、一番安かった宿に予約したのがここで、3泊する1泊目だという。

彼女たちと、メキシコのことや日本のこと、いろいろおしゃべりをしながらお風呂に浸かる。メキシコ訛りのスペイン語が響き渡るここはもう、私にとってメキシコである。

「サウナは苦手」という彼女たちとお風呂で一通り喋ると、「そろそろ」と言って彼女たちは去っていった。ひとりぼっちになったお風呂で、私は今度はサウナに入り浸る。至福のひとときである。すると、受付のおばちゃんが、洋服を着たままサウナに飛び込んできて、こう言った「あなた!まだここにいたの!もう12時過ぎてるよ!寝る場所見つけたから早く出ておいで」

「メキシコ」から「韓国」へ突如引き戻された私は、急いで洋服を着て、フロントへ向かう。おばちゃんがニコニコしながら案内してくれたのは、シングルベット一台と、ギリギリ通るスペースがある程度の、3畳くらいの小さな個室だった。「ベットにはすでにお客さんがいるから、こっちを使ってね」とおばちゃんが指をさしたのは、狭い床に敷かれた1枚の布団。確かによくみると、ベットの上には誰かのカバンが置いてある。

「私はいいけれど、このお客さんは個室だと思って入ってきたら私が居てすごくびっくりするんじゃないか。」そんな心配をよそに、おばちゃんは満足そうに去っていく。「まぁ他に選択肢もないし、明日は早いし、寝るか」。諦めた私は、歯磨きをしに、洗面所へ向かう。

歯磨き後、通りがかったカウンターでは、さっき友達になったメキシコ人のファビさんと韓国のおばちゃんが、お互いほとんど喋れない英語で何やら揉めている。何があったのか、聞いてみると、「メキシコからわざわざ持ってきた自前の枕が消えた」という。みんなで一緒に探しましょう、ということで、通訳としていつの間にか輪に加わった私は、韓国のおばちゃんとファビさんと一緒に、現場検証に向かう。彼女が泊まっている仮眠室は、10組ほど、修学旅行のように布団が並べて敷かれた広い部屋で、すでに眠っている人もいる。韓国のおばちゃんは勢いよく電気をつけ、水色と白の縞模様の枕を探す。

それでも見つからない枕。まぁもう夜遅いですし、寝ている人もいるから、明日ちゃんと探しましょう、ということで解散し、寝床に戻ると、おばちゃんが敷いてくれた私の布団と共に綺麗に並べられた枕は、縞模様。「まさか」

すぐに、ファビさんのところへ枕を持って戻ると、それは間違いなく彼女のものだった。時刻はあっという間に、午前1時すぎ。私は呆れて笑いながら、3750円で、韓国旅行もメキシコ旅行もできたと思えばかなりお得だと思いつつ、枕なしで眠りについた。

翌朝、朝6時半に起きると、私が眠った個室のベットは相変わらず空っぽ、真っ新なままであった。「それならベットで寝ればよかったな、いや、せめて枕だけでも借りればよかった」なんて思いながら、最後までツッコミどころがなくならない愉快な体験に朝から一笑い。そして「韓国」を去り、東京の窓拭きに出発したのであった。

カバー写真:あの日の打ち上げの集合写真。私が握る黒い花柄バックには窓拭き職人道具がぎっしり。

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