8月だけど、まだ蝉も鳴き始めない、朝4時47分の静かな大磯駅。私は大きなザックを背負って東海道線の始発電車に乗り込んだ。
それにしても慌ただしい2週間だったと振り返る。卒論を提出して、4日後には段ボール3箱にほとんどの荷物を詰めて宅急便で実家に送り、半年ほど暮らした京都のシェアハウスを引き払った。そして、危篤の祖父に会うため、残りの荷物を詰めた大きなカバンをいくつも抱えて、新幹線に乗って、地元に向かったその日に、祖父が亡くなった。それからバタバタとお通夜にお葬儀。山小屋に電話して、開始日を予定より少し遅らせてもらい、そして長野に向かっていた。
大磯駅から東京駅へ。そこから新幹線に乗って長野駅へ。バスに乗ったら、上高地。上高地のバスターミナルに着くと、長野名物おやきを買う。定番の野沢菜か、茄子か、きのこも捨てがたく、いつも迷う。切り干し大根も、美味しいのよな。遠足気分でおやきを物色し、18kgのザックを担いでせっせと突き進む。目指すは北穂高岳。
まだ高校生だった頃、近所の大学生が富士山で夏休みにアルバイトして、現金払いのお給料数十万を担いで下山したという話を聞いた。夢のような話だと思った。それ以来、大学生のうちに絶対やってみたいと思っていた山小屋アルバイト。富士山ならば、外国人の観光客が多く英語が役立つという。それに標高も日本一だし、と、思い描いていたが、いざ蓋を開けてみると富士山の山小屋はどこも7月頭の開山から9月の閉山までのシーズンみっちり働く人しか雇わないという。そんな中、調べていて偶然見つけたのが、北穂高小屋だった。小屋のキャッチフレーズは、「いちばん高いところにある山小屋」。山頂の直下にへばりついた山小屋で、北アルプスで一番の標高を誇る。富士山を除けば、日本でいちばん高い山小屋。せっかくなら、できるだけ高い方が良い、と思った。もちろん、給料ではなくて、登れる場所のことだ。
上高地を出発したのはすでに午後だったため、途中の横尾山荘で一泊し、そして合計10時間、エッチラホッチラ歩いて、やっとアルバイト先に到着した。この日から、私のバイト先兼借り暮らし先は、「最寄りのバス停から徒歩10時間」。ちょっぴり奇妙だけど、その分ワクワクしていた。
幸い出勤初日は晴天だった。そしてこの日は土曜日。山小屋が、一番忙しい天気の良い週末。到着してザックを下ろすと新しい仕事仲間と談笑する間も無く、早速働き始めることとなった。
山は朝が早い。週7日間、9時5時ならず、5時9時で働く毎日。5時頃起きて朝ごはんの準備。メニューはいつも同じ、目玉焼きとソーセージに筑前煮とご飯と味噌汁。朝ごはんが終わってお客様が7時や8時にチェックアウトすると、朝食をとり、その後は小屋の掃除。10時頃になると、涸沢に泊まっている登山客が北穂に到着し始める。テラスの売店で名物のドリップコーヒーを淹れたり、パンやカップヌードルの軽食販売。12時頃になると大忙しのランチタイム、メニューはカレーとラーメンと丼ぶりもの。それが終わると自分達の昼食タイム。13時や14時には、その日に宿泊するお客様が到着し始める。この間に休憩をとったりするが、あっという間に夕食の準備の時間になる。献立は毎日同じ、名物の生姜焼き。お新香を小皿に盛り付け、許されし者のみが刻めるふわふわ千切りキャベツ、きゅうりとトマトのサラダ。ご飯とお味噌汁はおかわり自由。17時か18時には、夕食が終わると、自分達の夕食の時間。日替わりで当番制で好きなものを準備する。すると今度はおつまみやお酒なんかがよく売れる時間になる。翌朝に備えて食堂を軽く掃除。21時に消灯。
ご飯を作る、掃除をする、それが毎日繰り返される。それ以外には、週に2回、お風呂。そして毎週、山小屋のオーナーが新聞やら雑誌を持って徒歩で上がってくる。水は全て雨水で、電気は大きな発電機といくつかの太陽光パネル。2週間に1回ほど、ヘリコプターが食料や燃料を持ってやって来て、燃やせないごみと、ぼっとんトイレの中身を持って飛んでいく。そして不定期でやってくる大晴れの日には、スタッフ総出で何十枚もの布団を屋根の上に並べて干す。この現象を、私は、「世界一幸せな布団現象」と呼ぶ。
晴れの日が週末や連休にあたると、下界にはこんなにたくさん人がいたのかと、目を見張るほどたくさんの人がやってくる。あるときは定員の3倍も人が来て、1枚の布団あたり知らないひと同士、2〜3人で寝てもらう。隣の山小屋まで行こうものなら、数時間歩くことになるし、暗い道を歩けるような山道ではない。夕方の3時、4時以降は基本的に次の目的地を目指すには遅すぎる。と、いうわけで「来るもの拒まず」が山小屋の常識なのだ。
それに比べ、天気の悪い時には、すっからかん。台風が来た時なんて、誰もお客さんいないかと思ったら、夕方にひょっこり現れたのが、新潟の糸魚川の親不知から2週間かけて縦走しながらたどり着いたというフランス人のお爺さん。「嵐の夜」という言葉がこんなにぴったりくる夜は他に無いんじゃないかと思うような、ガタガタと吹き荒れる風の音とバチバチと雨が屋根につき刺さる音が小屋の中に響く。ガランと広い部屋に一人で眠るのが寂しかったのか、それとも久しぶりにフランス語が喋れて嬉しかったのか、消灯時刻過ぎてもお爺さんは、なかなか部屋に上がらなかった。
山小屋の暮らしを思い出す時、真っ先に恋しいのは、ミルクフォームのような雲海とオレンジ色の空の明け方と、眩しい朝陽。それに、ゆっくり、長く、空を虹色にしながら沈んでいく夕日。晴れの空に山頂から見る、迫り来るような星空。
そして美しい非日常的な景色と表裏一体で存在する、山の事故。地上に住んでいたって、生きているからいつか死ぬ私たちだが、山という大きな自然を目の前にすると、その死がより一層迫って見える。
「友達が足を滑らせて、何十メートルも崖の下にいる」と、同伴していた仲間が顔を青くして小屋に戻ってきた。ついさっきまで私と話していた男の子だ。天気が悪いと、視界が悪い、地面が濡れて滑りやすい、風が強く煽られやすい、などと事故の原因が増える。同時に、天気が悪いと、生きていても亡くなっていても、雨が止み、霧が開けて風がおさまるまで、ヘリコプターは役に立たない。山岳救助隊が来るのにはどうしても時間がかかる。誰よりも1番現場に近いのが、「山小屋」なのだ。あの男の子は、ー後から聞くと私と1歳しか変わらなかったー、小屋の管理人が駆けつけ、ツェルトと食料を持って崖の下に降り、一晩、眠らないように、体温が下がりすぎないように、後から駆けつけた他の小屋の人手も加わり交代で看護した後、朝になって亡くなった。私は、晴れろ晴れろと、早くお医者さん来てよと祈り続けたが、結局風が十分弱くなったのは2日後だった。亡骸を空輸するヘリコプターの音が嫌でも耳に入ってきた。
これまでに200回も救助要請を受けて出動してきたという小屋の管理人は、それでも現場に向かう時は毎回緊張すると言った。無理もない。それにしても、時たま小屋を訪れて一緒に食卓を囲んだ山岳救助隊のチームや、他の小屋のスタッフは、事故の前後であっても、いつも驚くほどあっけらかんとしていた。ある時、「山が好きすぎるのはいかん」と誰かが言っていた。「好きすぎると死ぬまでのめり込むから」という、その誰かの言葉は、リアリティがあって、周りにいた仲間たちはみんなそれぞれ、山で失った友を思い浮かべたのではなかろうか、少しシンとする。すると別の誰かが、「でもそういうお前も好きだよな」と。笑いが起きる。
バス停から徒歩10時間。山と空しか見ない毎日。お金を出しても何も出ないし、お金を出さなくても全部ある。そんな44日間の山小屋生活は、ある日突然オーナーに、「雪が積もると降りられなくなるよね」と言われ、急遽打ち切りとなった。夏の終わりにやってきた山も、短い秋と紅葉も過ぎ去り、冬が近づいていたのだ。10月の頭だったが、9月の終わりから既に、雪も4、5回降った。そして朝は、前日に沸かして保温ポットに入れておいたお湯で凍った水道管を解凍するのがいつの間にか日課となっていた。
「現金の札束を持って下山」のはずが、給料は銀行振込だという。私はそんなこともう構わず、何度も振り返りながら、大きなザックを背負って山を降りたのであった。