エジプトの首都カイロの家からメトロで終点駅まで。道に広がる野菜や果物の移動販売で賑わう駅前から、20分ほど歩き、乗合のマイクロバスに乗り込む。私が乗った時点で2席ほど空いていた席も、5分も経たないうちに埋まり、出発した。砂漠が広がる窓の外には、遠くにピラミッドの三角の影が3つ。乗り合わせた女の子たちとおしゃべりをしたり、お菓子を分けたりしているうちに、あっという間に1時間半が経ち、先ほどまでの砂漠からは想像できなかったような4、5階建ての建物が立ち並ぶ、街へ差し掛かっていた。そこから、さらにマイクロバスを乗り換えて、30分。とうもろこしとサトウキビ畑を抜けて、小さな町へ到着する。中心には、大きなモスクが2つと、教会が1つ。平日の夜11時過ぎだが、トゥクトゥクが行き交う小道では、小さな子どもたちがたくさん走り回って遊んでいる。
アラビア語習得を目的に来たエジプト、当初は2〜3ヶ月の予定だったものが、やって来てから、かれこれもうすぐ半年になる。元々人懐っこいエジプト人だから、半年もいると知り合いもどんどん増えた。ある日、知り合いの知り合いから、「フランス語私塾のお手伝いをしに、1週間ほど来てくれないか」と連絡をもらい、「新しい町を訪れる機会だし、ホームステイの体験もできる」と、二つ返事で受け入れた依頼だった。
大学の教育学部在学中から、高校生の受験用のフランス語塾を営み始めたというヤヒアは、現在24歳。自宅の2階に大きな教室で、30〜40人規模のクラスを1日に1、2回、週6日一人で教えている。お父さんは4年前にガンで亡くなり、今は60歳近くなる母と2人で暮らしている。お母さんは、ユーモアたっぷり、冗談が大好きな明るいハッガで、近所の人や近くに住む親戚が1日に何度も、家に立ち寄っては、お茶を飲んで帰っていく。17歳の時に結婚して、子供がなかなかできず、夫が2人目の妻をとって3人子供ができたところで、やっとできた子供がヤヒアだったそうだ。エジプトでは、現在も法律上、男性は女性4人まで妻にすることが認められていることは知っていたが、実際に一夫多妻な家庭の人と会うのは初めてだった。
エジプト人も唸る、8月のエジプトは、本当に暑くて、昼間はほとんど人がいない家の前の道も、夕方になるとだんだん人通りが出て、夜になると大人から子供まで、家の前でおしゃべりをしたり、シシャを吸ったり、お茶を飲んだりなんかして、たむろす。ほとんどの家にクーラーがないので、夜は外にいた方が涼しいのだ。
私は一週間、毎日、お昼頃から夕方までフランス語の授業に出席し、生徒と発音の練習や、異文化についての講義をし、その後は夜の7時頃から12時過ぎまで、家の前に椅子を出してお母さんと並んで座り、おしゃべりをしたり、絵を書いたり、アラビア語を勉強しながら過ごしたのだった。お母さんと、と言っても、近所の人や子供たちも自然に集まってきて、毎日大人10人近く、子供達は軽く20人は走り回り、大宴会状態である。
到着した翌日、一番最初のフランス語の授業では、ヤヒア先生が、「彼女、先週婚約したんだよ」と、クラスにいた女の子の一人を指さして教えてくれた。思わず「え!」と開けた口で、「おめでとう(?)」と彼女に声をかけた。話をしてみれば、16歳だという。自分が16歳の時、何をしていたか、果たして当時結婚なんてできる気していただろうかとつい考える。
また、ある日の夕方、家の前でアラビア語の勉強をしていると、「何やってるのー」と、近所のお姉さんがやってきて私の読んでいるテキストを覗き込む。小さい声でぶつぶつ音読している私を見て、一緒に音読し始めた彼女だが、なかなか読み進まない。私より3歳年下の25歳で、子供が3人いる彼女だが、アラビア語を読むスピードは、私の倍かかる。いつも元気で明るくて彼女のそんな姿に、私は心底びっくりして、悲しくなってしまい、気がつけば彼女よりもゆっくり読むふりをしたのだった。
また別の日には、ご近所さんの家に遊びにいくと、「先月結婚した」という夫婦に出会う機会もあったが、これまた妻は16歳の女の子。夫は20代後半くらいであろうか。若妻の赤い口紅と、ぎこちない黒のアイラインがなんとも切なく、その状況では「おめでとう」が正しい声掛けだと思いながら、言ってから、すごく複雑な気持ちになったのであった。
ユニセフの定義では、18歳未満は児童婚だというから、ちょっと前まで16歳の女子が結婚できた日本の法律も、こうして考え直すと世界的にはかなり遅れていたのだと実感する。若くして結婚すると、教育が十分受けられなかったり、仕事をして経済的に自立することができないため、結果的に、家族や夫に頼らざる追えなくなる。エジプトでは、結婚は基本的に男性側の金銭力に依存した契約なので、女子の家族としては、「どうせ家庭にお金を入れることにならない女子」という前提が背景にあれば、早いうちにお嫁に出したほうが、手付金としてのお金が入ったり、家庭の食い扶持が減る。また婚前に処女を失ったりでもしたら親族間で殺し合いが起きる、女性の性器切除も違法でありながらまだまだ根深く残るエジプトだから、そんな婚前処女喪失のリスクも防げる若い娘の嫁入りは、親にやはり都合の良い選択肢になっているのである。
話を聞けば、私のホストであるヤヒアも、再来月結婚するので準備を進めているという。婚約した時の写真を見せてもらったので、「彼女どこに住んでるの?どうやって知り合ったの?」なんて気軽に質問したら、「きっかけは従兄弟の紹介。元々母が歳をとってきて家の周りで母のことを助けられる女手が必要だし、父が亡くなってから母と話し合って、紹介してもらった。まず彼女のお父さんと電話し、結婚の許可をもらって、母と挨拶に行った。そこで初めて彼女に出会って、家族同席で彼女の家に会いに行った3回目に、婚約が成立し、携帯番号を初めて交換した。」と言う。結婚は男性側が家や家財道具を用意し、結婚式の費用を準備するのが伝統だが、ヤヒアの暮らす、ファイウームでは、「花嫁は結婚当日まで、新しい家に一歩も足を踏み入れてはいけない」らしい。聞いてみれば、写真を送り合ったりして、どんな家具を置くか、壁を何色にするか、なんて彼女とやり取りしているという。とはいえ、いざ結婚するその日になって、父に言われるまま、3回しか会わずに婚約を決めた夫が準備した、知らない家に引っ越すのってどんな気分だろうと考えてしまった。
「男は(女より強い・女と同じくらい強い・女より弱い)。」フランス語の比較級を学ぶ授業で、そんなヤヒア先生が作った練習問題。文法的にはもちろん全て正解なのだが、先生がクラスに正解を問いかけると、教室の半分に固まって座る女子たちも、そしてもう半分に固まる男子たちも、全員が一斉に大きな声で「男は女より強い」と回答し、先生も「ん、オッケー、次。」と、一言。一人動揺する私は、周りに座っていた女の子2人に、「同じくらい強い、女より弱い、でも、どれも正解だと思うんだけど」と言ってみたが、ニッコリ首を傾げられて終わってしまった。
カイロに戻った昨晩、仲良しのエジプト人に一週間のショッキングな出来事を興奮気味に報告する私に対し、「それが大多数のエジプト人の姿かもしれないよ。日本人である君が今まで出会ってきたエジプト人は、それだけ、現状のエジプト社会の多数派とは異なる、一部の階級の一握りの、エジプト人なんだよ」と友人はあっさり言うのであった。
フランスでは、少し前からブルキニというムスリム女性のための体のラインが見えない水着を公共ビーチで許可するかしないか、学校でのヒジャブ着用はどうか、など「宗教と政治の分離」のためにかなり過激な論争が繰り広げられている。そんな時よく、「イスラム教は女性を制圧している」「ヒジャブやニカブの着用は女性の自由を奪っている」なんて意見があると、私はなんとなく「イスラムは悪ではないのに」とか「自分の選択でヒジャブを被っている女性だってたくさんいるし」と思っていた。だけれど、今回、小さな町での暮らしを覗いて感じたのは、ヒジャブを被るか被らないか、選択肢があるという女性はそもそも少なくて、それはヒジャブに限らず、結婚も仕事も、ムスリムでもクリスチャンでも、「女の子に与えられている選択肢の少なさ」であった。あの町では、28歳にもなって婚約も結婚もせず仕事をしながら旅をしている私は「すごく変な人」で、若いうちに結婚して子供を作って台所から家庭を支える女性像が「あたりまえ」だったのだ。それ以外の選択肢が与えれないし、そもそも、それ以外の選択肢があるという思考の余地もほとんど与えられていないのではないか。
毎日家の前に座っている東洋人を珍しく思って、近所の子供たちがよく、私にお菓子を買ってくれた。「お腹空いてる?お菓子食べない?」と言っては、私か「自分の分買うためのお金でしょ、私はいいよ、1口だけ後で味見させて」なんて言うのに、結局、私の分も買ってきてくれる。近所の人が手作りで作っている、凍らせて小さな袋に入れたマンゴージュースのアイスキャンディーは、1つ15円だという。まだ1歳にもならない弟を抱いて、人懐っこい笑顔でアイスを私に手渡す彼女は現在8歳。「彼女も、もしかしたら、8年後には、結婚しているのかもしれない。これから、どんな人生を歩むんだろう。」なんて頭をよぎる。