2019年10月11日の金曜日。時刻は夕方の5時。いつものように定時で仕事を終えた私は、ソワソワとロッカーへ向かい、ジャケットを脱いでハンガーにかけた。ロッカーの中には寝袋と登山リュックに登山靴。コソコソと女子トイレで登山服に着替え、ハイヒールをロッカーにしまうと、誰にも見られないうちにエレベーターに駆け込んだ。
平日、少し早めとはいえ帰宅ラッシュの丸の内北口の横断歩道。完全に場違いな格好をした私を、スーツを着たサラリーマンの何人かがチラッと振り返った。
オフィスから空港へ直行し、旅先に向かうのは初めてではなかった。2018年、社会人デビュー1ヶ月後の初めてのゴールデンウィークも、オフィスから空港へ、香港を経由してインドネシアへ飛び、そして帰りも同様に香港で乗り継いだのち、朝6時半に到着した成田空港から、東京駅のカフェで軽い朝食を取ってオフィスへ直行した。その時、母からは、飛行機が遅延でもしたらどうするのか、普通は1日前に戻って旅行の疲れを取ってから仕事に戻るものじゃないか、などと言われた。飛行機の遅延は確かにその通りだが、そうなったらなったで仕方がないじゃないか。電車が遅延するのを毎朝恐れて始発で会社に向かう人なんて聞いたことないし。ましてや、旅行に行って疲れるというのもよくわからない。一人旅が好きな私は、基本的に一人あまりスケジュールを決めずにゆったり過ごすため、旅行に行って疲れた状態で帰ってくるという経験があまりないのだ。
そんなわけで、この「直帰」ならず直接に空港へ向かう「直空」スタイルは、短い休みを最大限に活用し思う存分旅を満喫するための、私の定番となっていたのである。
とは言っても今回の「直空」は普段とは訳が違った。なにせ職場オフィスを出発後、48時間以内には、トレッキングを開始、そしてヒマラヤ山脈の山の中の、パクディンという小さな村にいる予定なのだ。
普段ならカトマンズからトレッキング開始地点のルクラへ国内便でひとっ飛び、飛行時間は15分。ところが私の行った年は、政府の都合でこの国内便が全てキャンセルされており、カトマンズから乗合バスで4時間かけてラメチャップという町へ向かい、そこからルクラへの小型飛行機に乗る計画となっていた。
ひとまず成田から乗り継ぎのタイへ向かい、到着した夜はバンコクの空港で仮眠をとり、翌日、カトマンズ行きの飛行機まで午前中いっぱい時間があったので、早起きして空港付近の市場と寺院を散策することにした。
市場では、まず、レバーや蜂の巣の煮込みの載ったスープに細い米麺であるセンレックが入ったものを地元のおじちゃんたちに混ざって食べた。小さな市場に2時間ほど、行ったり来たり人を観察し、この旅のためにカメラマンの友人が「そんなところに行くのに、スマホカメラだけでは勿体無いよ」と貸してくれた一眼レフカメラの撮影練習を一通りしたところで、去る前に、市場内で常に人が絶えなかった屋台の、白くて丸いスナックを買ってみることにした。たこ焼きのような見た目で、上にネギまで乗っているため、完全にしょっぱい系だと思ったが、口に入れると甘い!そして熱い!それから、しょっぱい!口を大火傷し、ヒーヒー言いながら市場の入口で立ち食いしていると、通りかかる人が笑いながら私の顔を覗きこむ。誰かが「美味しいか?」と聞くから、私は思わず「甘いものだって想像もしなかったよ!」と答えた。ちなみに、後になって調べると、あれは「カノム・クロック」というらしい。名前の意味は、愛し合う2人。半円2つをくっつっけてたこ焼きのような形にしているらしい。なんとも憎らしいロマンチックなネーミングである。すっかりしょっぱいもの気分だった私は裏切られたような気持ちになり、空港へ戻る道の途中でタイの焼き鳥「ガイヤーン」を3串注文。目の前で優しそうなおじさんが炭火でじっくりこんがり焼き目をつけてくれる。洗濯物が全部煙の匂いにならないか心配だけれど。焦げたタレの味がたまらない!すっかり満足して、早足で空港に戻った。
空港のゲートで待ちながら、食べきらずに冷めきった「カノム・クロック」をつまんでいると、会社のメールボックスに通知のマークがついている。会社の上司から、「山に気をつけて」とのメールをみて、私は思い出し笑いをしてしまった。出発した金曜日、普段は直近の上司やクライアントとのミーティングがほとんどだが、珍しく社長も参加する大事なミーティングがあり、次回日程や今後の予定を確認する流れになったところで、「来週月曜から2週間、おやすみいただいているんです。電波もあるかどうかわかりません。」と説明せざるを得なくなったのだ。今時、旅先でも電波が無いなんて珍しい。「ちょっとネパールに行く予定でして。」「実は標高5600mを目指していて。」「2週間みっちり山の中で歩くんです」。一番驚いていたのは社長である。「休暇をとって?毎日歩き続けるの?危険じゃないの?」質問が続く。「ヘリで行ったりもできるんじゃないの?」今、この瞬間、ミーティングルームで先ほどの社長の驚きを上回る一番の驚きを見せているのはこの私だ。ヘリコプターで山に行こうだなんて。救助ヘリが必要になったらどうしようと考えたことはあるけど、ヘリで山を見に行こうなんて思ったことなかったよな。「へへへ」と笑いながら、「歩きたくて行くんです。ヘリなんて、なんとも社長らしい発想ですね」と答えたのだった。
カトマンズ行きの飛行機に乗り込むと、座った途端ぐっすり眠った。ふと目を覚ますと、私はキャビンアテンダントに肩を優しくつつかれており、出入国カードが手渡された。寝ぼけながら、ショルダーバックを探るけれど、ペンは多分頭の上の荷物置きの中だ。隣のタイ人のおじちゃんに訊ねると快くペンを貸してくれた。そして、おじちゃんは「あなたのリュックを見ました。山に行くの?」とジェスチャーとカタコトの英語で、私に尋ねた。「そうよ、エベレスト、ベースキャンプに!」私が笑顔で答えると、ちょうど機内放送が掛かった。
「当機は間も無く、カトマンズに到着します。到着地の只今の時刻は午後1時10分、天候は晴れ、気温は23度でございます。」