ピレネー山脈の暮らし

人口5人。街まで、バスで45分。フランスの国境は徒歩10分。オックスフォードで修士号を取得しながら、ピレネー山脈の山の中、スペインとフランスの国境のところに位置する小さな村に2ヶ月ほど、暮らした。

村というよりは、スキー場と言ったほうが正しい。スペインのアラゴン州の端っこに位置するアストゥンには、スキーリゾートホテルが1軒と、夏の避暑地、冬はスキーをするために滞在する別荘群が並ぶ。スキーシーズンでも登山シーズンでもない時には、すっかり空っぽになる。建物の一階には、とてつもなく広い駐車場と、レストラン、カフェ、広いテラス席に積まれた椅子。それにスキーのレンタル店。空中に浮かんだまま、動かない、スキーリフトのベンチ。全てが閉まって空っぽで真っ暗なこの村にいると、まるで世界が止まってしまったようだった。

実際、私の世界は止まってしまったようだった。きっと、予期せぬ感染症の拡大で外出を制限された世界中の人が感じていたのと同じように。外出制限も行動制限もほとんどないスペインではあったが、修士論文の作成や課題に追われ、毎日、「なんのために勉強しているのか」と思いつめ、矛盾を感じながらも、机に向かってコンピュータを見つめて過ごしていたバルセロナ。「山の中の、家族の別荘で、日本語検定の試験勉強をしているからおいで。きっと勉強に集中できる環境だし、お互いの勉強の助けになれるよ」と、友人が誘ってくれたのだった。どちらにせよ、コンピュータの中を丸一日覗き込む日々が待っていたのだが、唯一変わったのは、ふと画面から目を離し顔を上げると、宙ぶらりんのスキーリフトベンチが規則正しく並んでいる景色。それにいつも同じ場所にある山々。天気が良く毎日青空を見ることができるのが、何よりの救いではあったものの、時たま、人類滅亡後の地球に住んでいるような、不安な気持ちになったものである。晴れの日の週末に、散歩に訪れる人を珍しく見かけた時や、近所に基地を持つスペインの軍隊がトレーニングで山歩きをしに列を成して歩いていた時など、ついつい部屋の窓から双眼鏡で物珍しく観察したものだった。

私と友人の他に、村に暮らしているのは、おそらくコロナでリモートワークになったからだろうか、それとも失業中なのか、家族の別荘に暮らしているらしき、滅多に見かけないそれぞれ30代、40代くらいであろう男性が2人。そして、パナデロおじさんだ。

パナデロという珍しい苗字は、スペイン語で「パン屋」という意味である。パナデロおじさんは、パン屋ではなく、別荘群の建物の修繕や、レンタルスキー板やスキー靴の修理や手入れなどをして、かれこれ数十年アストゥンに暮らしているという。元々マドリッドの出身であるという彼は、マドリレーニョらしくとても感じの良い紳士で、彼のアパートでの食事に招待してくれたこともあった。美味しい生ハムに、手作りのトルティージャ・デ・パタタ(スペイン風オムレツ)、他の村から遊びに来たパナデロさんの友達が大きな鍋で作るアロス・ネグロ(イカ墨のパエリア)。美味しい料理をたっぷり堪能した後、帰り際にパナデロさんが「よかったらお土産にどうぞ」と出してきたのは、大きな瓶。中には乾燥大麻。自家用にの大麻栽培が非合法ではないスペインならではの、ちょっと驚きの手土産である。「山に暮らして、スキー客も登山客もいない時期はちょっと寂しくてね。毎年、スキーの時期が終わる春の初めに種を植えると、夏の登山客が増える頃までに大きく育って花が咲いてね、翌年のスキーの時期が始まるまで成長を楽しんでいるんだよ」という。ちなみにだが、パナデロさんは収穫した葉をオイル漬けにして、塗り薬として使っているのだとか。

2週間に一度、1日に5本走っているバスに45分の揺られ、ハカという街に買い出しに出かける。 スペインが今の形に統一される前は、アラゴン王国の首都であったこともあるこの街には、大きなお城や大聖堂もあり、サンティアゴの巡礼路の通過点にもなっている。せっかくの街、レストランに行って、ロボ・デ・トロ(牛テールの煮込み)や、バルのタパス、美味しいカフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)を満喫し、スーパーマーケットや八百屋を梯子して調達した2週間分の食材を、スーツケースに詰め込む。私にとって何より欠かせないのが、アーティチョーク。日本では生のアーティチョークは珍しいし、あってもとても高いので、ヨーロッパに旬の時期にいるときは、出来ることなら毎日食べたい代物である。バルセロナのお父さんに教えてもらった、塩とオリーブオイルを垂らして電子レンジで蒸すシンプルな調理法が、一番のお気に入り。蓮根と茄子に負けないくらい、これなしでは生きられないほど、大好きな野菜である。多くの気晴らしがあるわけではない、山での勉強合宿生活。料理は私にとって大事な息抜きであった。そのせいもあって、友達は、「さらさのせいで毎日食べ過ぎちゃうよ」と言ってはいたが。

ある日、「今日はフランスにチーズ・フォンデュを食べに行きましょう」と提案し、鍋にチーズ、白ワインにフランスパンを持って、フランスの国境まで歩き、屋外ディナーをしたこともあった。他にも、家から歩いて10分の滝壺へ良く出かけて、天気の良い日はそこで勉強をしたり、友達が泳ぐのを眺めたりしていた。近所の山を散歩に出かけた日もあったが、アストゥンで標高は既に1700m近く(やはり高いところが好きな私である)、スキー場が閉まっている時期であっても、ちょっと登れば雪だらけ。冷たい風に吹かれながら、雪解け水の音に耳を澄ませ、夕日で赤く染まる山々を見たのも、遠い昔のように感じる。

2ヶ月後、修士論文をなんとか完成し、提出し終えた上で、バスを乗り換えながら丸一日移動してバルセロナに帰った私であるが、アストゥンを去るとき振り返った、いつも変わらぬ山々は、今も鮮明に思い出される。